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 宵の静寂をより深くへと堕としめる
 そんな蒼い春嵐の晩だった。
 若葉の芽までも狩る勢いの暴風(あらしまかぜ)は吹き上がり雲返る風と成って雨をも渫い、格子窓からは濁流する雲の隙間を縫って揺るぎない月がこちらを覗いていた。
 
 鉄錆びた深紅の香に塗れた指先をこじ開ければ、乾いた畳にゴトリと狂気が滑り堕ちる。
 
「んあっ・・・・・」
 
 鞘から抜いた刃は還らぬ覚悟の証し。
 交わす刃はその重さで使い手を侵食する。
 昂り限界点に達している神経は血に濡れた真田のヌメリを浅ましく掴み取り、思わず身悶えていた。
 
「嗚呼。もぉ、嫌ですねぇ・・・・・」
 
 背で壁に縋り、取りこぼした刃の裾野に身を崩す。
 肌蹴て乱れた緋襦袢は啜った魂の分だけ淫美に染まったもの。
 冷たい壁。
 月に仄めく白い膝。
 乱れた蹴出しを整えようと伸ばされた手は、しかし、仄めく肌を滑り墜ち蹴出しの奥へと消えてゆく。暫くすると手だけでは物足りなくなったのか、クチュと淫水を響かせ乍ら男の媚声が零れ出し、乾冷に沈む荒屋の空を震えさせた。
 と、突然に現れた黒い影に視界を奪われ押し倒される。
 
「っ…………」
 
 そんな驚きに突かれたように、男は声を失った。
 
「月灯を浴びて乱れる綺麗な兄ちゃんか。絵になるねぇ」
 
 尋ね人知らずだと思っていた戸口に唐突に現れ、月を背にした長い影の男は動じる風もなく言ってのけると、上がり框に腰を降ろす。後ろに控えていた白い影は知った顔で座敷きに上がり込むと、部屋の奥隅にあった古い道具入れを框の男に差し出した。
 全身ずぶ濡れに見えた二人だったが、白い影が通った畳には露ひとつ零れておらず、上がり框に腰掛けた男も濡れてなどはいなかった。
 
「そんなに驚くなよ。こんな荒屋だって今の御時世、使ってる人間だっているぜ?」
 
 男は渡された道具入れから白い小皿を幾つも取り出しながら朗らかに話し掛け、
 
「つっても、仕事場にしてるだけだがな」
 
 と、軽く絵筆を掲げて笑った。
 壁際の男は絵筆の向こう側から投げられた笑みに我に返り、晒した媚態の羞恥に小さく呻いた。
 絵師はそんな男を打って変わった冷笑で捕らえると、音もなく揺蕩った顔料の香を見渡すように視線を巡らせる。
 
「いいだろう?……此処」
 
 巡り戻った絵師の笑みは、先程の浅ましい行為を揶揄していて。
 
「続けろよ」
 
 鋭利な眼で壁際の男を縛りつけた。
 
「絵になるって言っただろ。描いてやるから続けろ」
 
「……できる・わけ、ないでしょう」
 
 搾り出された抗いの言葉に絵師はカラリと表情を変え、「あ、そう?」と晴れやかに放り投げた。
 しかし筆を置き、框を越え、真直ぐに男に近付きながら「いいね、あんた」と味わう様に噛みしめた其の頃には、再び鋭い眼光で男を捕縛していた。
 投げ出されたままの膝の間に擦りもせずに身を沈め鼻先を合わせる。
 体温だけが不自然に絡み合う距離。
 この絵師はそれだけでも、浅ましく乱れた堕ちた身体が甘美に痺れる事を知っているようだった。
 白い影は沈黙し成り行きを見守っている。
 
「名前は?」
 
「天蓬です」
 
 絵師は低く掠れた声で「いい名だ」と視線だけで天蓬を撫であやし、髪から覗いている耳元に狙いを定めて唇を寄せた。
 ゆっくりと嬲り囁く。
 
「何人、斬ってきた?」
 
「………………っ」
 
「どんな風に斬った?」
 
 ぴちゃぴちゃと鼓膜に響く湿った音は、頭から喰われているような錯角を天蓬に起こさせ……
 
「っ…………あ、ぁ……や……」
 
「仕留めた瞬間の刀の重さ。まだ残ってんだろ? この腕に」
 
 するりと腕を撫で上げた途端、息を詰まらせ宙に跳ねる天蓬の視線。晒された白い喉元に、きゅっと縮んだ瞳孔と見開かれた眼。
 硬直してしまった天蓬の手を鷲掴んだ男は、既に自らの手淫でしとどに濡れている陰茎を再び握り込ませると、其の指先に教えるように導き嬲った。
 
「俺を見ろ、天蓬」
 
「あ……あ、ぁ……」
 
 硬く喘いでぎこちなく視線を還す天蓬。
 その顎を節榑立った手で乱雑に掴むと、男は噛み付くように口付けた。
 
「んんんっ……ぅぁ……あっ……」
 
 無意識に男の名を求め喘いだ天蓬の唇に、男は「捲簾だ」と流し込み、より深くを陵辱する。
 
「捲れ・・んふっ」
 
 名を弾かせようとした舌は縺れ頤に雫を垂らし、解放する事の出来なかった名は天蓬の深くに突き刺さり、チリチリと胸の奥を焦がす。
 然し昂り餓えた浅ましい神経は、欲した快楽の波にあっさりと天蓬を飲み込んでしまい思考を奪った。
 ただ囈言のように捲簾の名を口に乗せ与えられる以上の口付けを貪り、指先は記憶を取り戻し蠢いて淫美の炎を燃え募らせるのみ。
 
「いいぜ」
 
 佇む白い影の気配だけを一瞥した捲簾は、甘く掠れた色慾の声で天蓬を突き放した。
 
「見ていてやるから一人で果てな」
 
 沸き上がる吐精感を見せ付けるように情慾の眼を捲簾に据えた天蓬は、緊縛し合う視線により昂りを覚え、一気に昇り詰める。
 
「んぁっ・ああっ・あああんっ」
 
 痙攣し強張った爪先が乾いた畳を小さくカリッと引っ掻いて、抱えていた重い精を吐き出した。
 快楽の波に打上げられた天蓬の身体はだらりと壁に墜ちるが、それでも捲簾と視線を外す事はなく、千切れた息も其の侭に睨み合った。
 睦言を交わすような色香はどこにもなく、しかし、睦言以上を交わしているような。
 そんな密な黙視合い。
 然し先に視線を断ち切ったのは捲簾だった。

「敖潤、後はお前が相手をしてやれ」
 
 框に戻り筆を取った捲簾と入れ替り、天蓬の目前に膝を着く敖潤と呼ばれた白い影。
 天蓬は今更ながらに白く浮き立っていた理由を目の前にし、感嘆の息を吐く。
 色素の抜け落ちた真っ白な鱗の肌。その肌をより妖しめる深紅の眼と唇。其れを奇怪と見せない程に美しい容姿と銀の髪。その銀を反射しているのかと思われた眼の淡い輝きは、よく見れば金である事が分る。
 
「珍しいだろ? 見せ物小屋で拾ってきた」
 
 楽し気に告げる捲簾を嗜めるかのように低く押し殺した声で、敖潤は小さく名を呼んだ。
 其れだけで直ぐさま形良く結ばれてしまった蛇のように感情の見えない唇の紅を、天蓬は興味に惹かれ嘗め取るように舌を這わせた。
 
「……本物……ですか…………」
 
 落ちない紅に惚けたように口零すと、一瞬後には捲簾の笑いが弾け、
 
「纏めて描いてやるから、さっさと始な」
 
 捲簾の眼は再び獲物を見据えていて、天蓬は真っ白い蛇に絡め取られるように、再び淫慾の波に溺れていった。
 
 
 
 
 「矢張り奪う事は叶わぬのだな……」
 
 朦朧とした意識に流れ込んできた諦めた風な声は、確かに敖潤のものだったような……
 そんな事を思いながら、天蓬は凍えた自身の手足を抱き寄せながら目を覚した。
 格子窓の外の景色も、荒屋に満ちた空気も澄みきった朝に変わっていて、昨晩の陰鬱とした重さは無く、人の気配も無かった。ただ在るのは框に転がった巻き物一つ。
 
「捲簾……僕はまた間に合わなかったのでしょうか?」
 
 天蓬は弾かれたように巻き物を手にすると、荒屋から駆け出した。
 何故こんな事をするのか?
 天蓬自身でさえ考えている余裕がない程の衝動と直感に任せ、捲簾が描き残した画を手に走った。
 そして頭の中が真っ白になりそうな程に息が切れた頃、天蓬はずらり並んだ絵草子屋の一軒の軒先きに足を止めていた。
 
「此れを引き取って貰えませんか?」
 
 店の主と思うには幾分傾いた身也の男に、息を整えるのも忘れて声を掛けていた。
 
「随分と不粋な口火を切ってくれんじゃないの。ウチだったら引き取って貰えるって感じたんっしょ?」
 
 男は笑いながら巻き物を奪うと、丁寧に紐を解いた。
 
「相変わらず色っぽいねー。いいぜ、気に入った。捲簾最後の画となりゃ箔も付く」
 
「貴方。何故、それを」
 
 狼狽する天蓬の問いに、男は「知らねぇ方が可笑しいだろ」と大笑いで返した。
 
「旬の浮き世絵師が大川に上がったってんで一昨日から火が着いたような噂だぜ」
 
「一昨日。一昨日って……」
 
「は? 一昨日は三日前だろうが」
 
「嗚呼、そうですね。あの……敖潤も一緒にですか」
 
「いや。だから余計に噂んなってんのよ」
 
 男は続けた。まだ上がってこないのか、それとも敖潤が下手人なのか。果ては、浮き世離れした風貌と捲簾が描いていた様相が相俟り「昊に返った」とまで囁く者もいると。
 「でも、本当に一旦返ったみてえだな」男は天蓬を眇めるようにして捲簾の画を指先で弾いた。
 其処には迷い無く昊に昇ってゆく真っ白い龍が描かれており、其れと入れ違うように螺旋を描いて舞い降りる蝶の群れが墨一色で張り付けられていた。
 思いもしなかった捲簾の画に天蓬の思考が逡巡する。「こんな絵だったろうか?」と。だが、目にしているのは確かに自分が持ってきた物で。
 
「この蝶、あんただろ?」
 
「此れが敖潤ならそうなりますね」
 
「単色の蝶の意味知ってる?」
 
「いえ」
 
「来世でも会いましょう」
 
 目が醒める。
 何度となく繰り返す別れ。
 其の別れ際にしか存在しない己。
 まるで無理矢理にでも接点を持とうとするように、捲簾の死際に呼び出される過去のない己の存在。
 胸の奥をチリリと針で刺される痛み。
 
「彫り物だとな、そんな意味らしいぜ」
 
 春先の陽射しに溶けはじめた天蓬の影に男は愛しそうに笑みを浮かべた。
 其処へカラカラと乾いた下駄の音が近付いて……
 
「貴方、また仕事もしないでお花見ですか?」
 
 消えかけた天蓬の躯を通り過ぎる。
 と、花弁を巻き上げた春風が其の男を振り返らせた。
 首筋には青い蝶の刺青が羽根を休めていた。

tattooの壱さんに222のキリリクで書いて戴きました。
ポン刀で襦袢で刺青が!!私の萌ツボをきっちり押さえて下さって、身悶えました!!
然も、この小説ページに御招待を戴き、ノコノコいそいそ出掛けましたらば、
態々エントランスを作って、私の生誕を祝って下さっていたのですー!
嬉しくて泣きそう!!壱さん、大好きー!!!心から愛してます!!!
始まりと終わりは紙一重で、本当に重なる場所はほんの僅かですが、
その刹那の為だけにでも繰り返して往けるのは、幸せの一つでは無かろうか、と思いました。

来世でも、きっと、あなたに逢えます様に。

壱さん、この度は本当にありがとうございました!!

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