現実の気懸りや心掛りを昇華する為に、人は夢を見るのだと言う。 自身の記憶や意識としての結果でも、識閾の向こう側なのだから第三者的な行為、と呼べるかも知れない。息苦しい呼吸器へ、口移しで二酸化炭素を吹き込まれるようなものだろうか。救おうと手を差し伸べる者が誰であるかによって、二酸化炭素は酸素になり、益々息苦しさは増して、もういっそ楽になりたいと、願いもするのに。 約束事にした訳では無いが、帰宅を待たずに床へ入る。語らぬ口は偽りも語らず、見えぬ眼は現実をも知らせない。そう思いながら悶々と寝返りを打つ間に、現と幻の境は愈々曖昧になって、望まぬ続きを脳裏のスクリーンへ映し始める。かたかたと無遠慮に回り続ける映写機を引っ繰り返し、逆様に振ってもスイッチは見付からず、零れる涙を「これは嘘だ。夢だ。泣いてなんか居ない」と啜り上げて押し殺す。そうして眼を開けた時も、やっぱり頬は、冷たい。 その雫を枕へ擦り付けて拭い、半分しか温もりの無いベッドを、急き立てられるように飛び抜けると、寝巻きのまま外套を羽織って、家を出た。 「ああ。そろそろ来る時間だと思った」 「僕のパターン、読まれちゃってます?流石ですねぇ」 「馬鹿でも分かる」 セルフサービスだ、と顎で示されたコーヒーポッドは、落とし立ての様な香りを並々と充満させ、深い琥珀に染まっていた。何時の間にか僕専用となったマグカップに注いでから、貴方は?と尋ねると、視線も向けずに首だけを縦に下ろした。 言葉が無くて憂う人。言葉が無くても安らぐ人。 「何時もこんなに遅くまでお仕事を?」 「灰皿一杯ですね。僕、換えて来ますね」 「明日は晴れるんですかね。そろそろ晴れてくれないと、洗濯物が溜まっちゃって」 ひとつの返答も全ての返答も無いが、耳に留めてくれて居る、とは分かる。始めの音が室内に響くと刹那、手の物が休息する。煙草だったり筆記具だったり、その時々に違う物が、同じ動静をする。 「僕。家出して来て良いですか?」 「好きにしろ」 「あ。喋った」 「お前とは喋らねぇ、と言った憶えは無い」 「じゃあ喋りましょうよ」 「何を」 「時事問題とかですか?」 「俺に尋ねるな」 「貴方はどんな話題が良いんですか?」 「家出以外の話なら何でも良い」 「分かりました。もう帰ります」 「ああ。そうしろ」 そうして一度だけ僕を見る。その眼差しの慈愛へ縋るのは或る種、裏切りだろうと充分承知して居るが、それだけ僕は弱くなってしまった。共生を知るからこその孤独は、この先永遠に付き纏う。知らなければ良かったと嘆いても遅い。ならば自分にどれ程の大罪を背負わせようとも、手懐けて行かなければならない。 「僕は、狡いですか?」 「人が人で在る限り、仕方がねぇ事だ」 「僕は人では無いですけどね」 「人で無いなら何だ」 「屍です」 「腐るなよ」 「もう腐ってます。お休みなさい」 いっそう帳の下りた闇は暗く、寒風が円を描くように吹き上がって、立てた外套の衿を強く揺らした。 「そんな薄着でどちらまで?」 「…あ。お帰りなさい。今日は早かったんですね」 「うん、早かった。で、お前はどちらでこんなに遅くまで?」 「ちょっとコーヒーを飲みに」 銜え煙草でテーブルに両足を乗せ、背凭れを斜めに揺らしていたイスの音がぴたり止むと、床板を伝った震動が、扉の前の靴底を揺らす程にも強く蹴り倒され、次には外套の胸倉を掴まれ見下ろされていた。 「美味いコーヒー?不味いコーヒー?」 「…え?」 「セックスの後のコーヒーは格別だろ?」 蛮声を上げる間も許されず、大きな掌が口を塞いだ。押し倒される床の冷たさと固さに背が軋む。引き千切られたシャツのボタンが、テーブルの足元まで転がって、ぱたりと横を向いて止まるのを、夢の狭間か死の間際のような眼差しで見送った。 「雑なのか、好戦的なのか。まあ。何れにしろ最低だな」 唇を這わせて居た首筋にそう言い終えてから、口角を僅かに上げて微笑んで、がぶり噛み付いた。皮膚が肉が犬歯を食い込ませ、じゅうじゅうと吸い上げられる度に、尋常ならざる熱を持ち、唇が離されてから覗く鏡は、焼け爛れた痕を明瞭に映す事だろう。 「違います…!キスマークなんかじゃな…」 「どっちでも良い。ただお前に、俺の痕以外残ってるのがイヤ」 掌の隙を縫って叫んだ言葉は実に無意味。嘘を嘘として伝え、真実を真実として語り、それが受け入れられてこそ、役割を終え消えていくものを、受け取られずに宙を虚しく彷徨い、挙句火の中へ飛び込んで、益々焔を紅く、熱くしてしまう。 言葉が在っても憂う人。言葉が在って安らぐ人。 fin. 何年も前に書いて放置プレイになっていましたがサルベージしてみました(照) 浄八に三を絡めた修羅場と言うほどのものでもない、何かそんな話を書きたかった時期なのだと思われます。 本日のお付き合いも有難う御座いました! 黎明 拝 2015/10/01 up |