恋 一 夜




焦がれた末に恋を結んだふたりは、募る愛しさに勾引かされ、怠惰へと身を崩して、少しも働かなくなってしまいました。
そんなある日。とうとう天帝の怒りに触れ、ふたりは引き離されてしまいます。
嘆き悲しむふたりの涙で、天には大きな河が出来ました。毎日まいにち流され続ける涙で枯れる間がなく、誰も対岸へ渡る事が出来ません。困り果てた天帝は、使いの烏に伝言をさせました。
「毎月七日の晩だけ逢瀬を許そう」
烏はふたりの元へそれぞれ赴き、こう伝えました。
「七月七日の晩だけ逢瀬を許そう」
何という事でしょう。烏は天帝の言葉を聞き違え伝えてしまったのです。然しもう二度と逢えないものと憂いていたふたりには、その恩情すら喜ばしく、その一日の為にと他の日を、誰よりも努めて過ごすようになりました。
たったひと夜のひと時ばかりを、想いながら。





裏木戸を開けるともう、人の気配がした。白砂の道も足跡に乱れている。
ふと空を見上げると、だいぶ深まった夜に絡まる温い風を刺して、星光が瞬いた。先の世から届くうちには、白々しく消え失せて、気付かぬ事も多いだろうに、それでも専心して夜陰を飾る。中には、虚けて落ちるものもあるだろうかと徒然思いながら、暫くその場へ佇んで居た。
「おい。早く入って来い」
がらりと硝子が開き、格子窓から呼び掛けられる。このふたとせで聞き慣れた声に、目線を下ろして会釈をすると、隔てられた向こう側からも、満面で会釈が返される。全く似合わない素振りに、僕は可笑しくなってしまった。
「貴方。謙虚な態度がこれほど似合わないのも」
「泡沫の相手には、御誂え向きだろう?」
「ええ。そうですね」
さくさくと、態と踏み石を避けて通った足跡に重ね、同じ道を進んで勝手口を開けた。
天界を抜け出し下界で、この晩を過ごすようになって、未だ浅い。そして約束事を交わした所以でも無いのだが、暦に気付いた途端、自然と足が向いてしまう。それはあの年から、何度目か。
任務終わりに見上げた夜空が満天で、その日に限って妙に僕は焚き付けられ、ひとり帰還を遅らせて酒を嗜んだ。仕入れた酒瓶と猪口を傍らに、小高い丘の頂に座してぼんやりと星空を眺めていた。特に感傷的でもなく、ただ空虚に浸る時が好ましいばかりで、特筆すべき、どうという表情も浮かべていなかったように思うのだが。
「悲嘆に暮れる美人は見事だな」
「何のお話を?」
「俺も相伴に預かろう」
「勝手を仰らないで下さい」
そうする間にも、僕の手から猪口を奪い取り、飲み掛けの半分と、新しくなみなみと注いだ一杯を飲み干していた。きゅ、と指先で拭い、再び僕の手に戻った猪口は、僅かな人肌を宿し、それは大いに僕の体温と違う、熱いもので、駭然とさせられた指先が、拒んだ。猪口は一心不乱に、坂道を転がり落ちて行く。
「お前。何を恐れてる?」
「恐れては居ません。ただ。貴方を僕の躰は、拒むのです」
「それが、恐れるという事だろう?」
次の時には唇が塞がれて、異論を申し立てる事も出来なくなってしまった。絡み合う舌が、酔漢の戯言と所作事に拍車を掛ける。
「俺が怖いか」
「いいえ。僕が怖いものは、ただひとつきりです」
「お前を脅かすものは何だ?」
「見も知らぬ、僕自身です」
離された唇の、繋がる糸のままそう云って、身を預けた。固く抱き寄せられた腕の中、聞こえる吐息は僕以外にも、もうひとつ在るようだった。酔いが回って来た風でも無く、嘆く息でも無い、安息にも似た呼吸が暫く、僕の身を揺らす。
「此処で抱くにはお前は、勿体無い代物だ」
「ええ。お好きに」
「お前は、何時まで此処に居る」
「明朝には帰ります」
「此処ではひと夜の恋か。悪くねぇ」
内包する言葉の意味を探ろうと、腕の中を藻掻き這い出すのだが、それでも直ぐに捕らえられ、引き戻される。三度もそうしただろうか。僕はもう面倒になってしまった所為も在り、抱き締められる腕の強弱を、真綿の放恣で受け止めて、訳も分からず歎息した。
情事の前に溜息もねぇだろう、と、そう云ったきり二人とも無口になって、そうして強い腕に引かれるまま、この草庵へと踏み入れたのが三年前。
「これでは、ひと夜とは云いませんねぇ」
「一年に一遍だ。ひと夜と語っても良いだろう」
今年の何度目かの睦びを終え、何気なく漏らした過去への科白を、直ぐさまそれと気が付いて、僕の耳元へ熱い息のまま、囁いた。幼気に笑っているような声だった。
「何が可笑しいのですか?」
「今に、分かる」
今度は酷く狡猾な音色で告げながら、僕の耳朶を噛んだ。頬を掠める黒髪が、まるで烏の羽根のように、艶々として視界を遮った。





「天蓬元帥。これが新任の、捲簾大将の経歴書と東方軍での評価表だ」
「はい。閣下」
「酒瓶はぶら下げて歩く、下界での遊興も度々、特に此の数年来は、毎年同日に可也の無茶を通して任務を片付け、出歩くそうだ。気を付けてくれ」
「…ええ。承知しました。ですがその件は、もう、ご心配には及びません」


経歴書に添付された一葉の写真を見て、天蓬は薄ら微笑んだ。



fin.



四日も遅れて七夕です。いつもに増して短いのはご愛嬌(笑)
本日も拍手の応援、有難う御座いました!



2007.7.10


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