阿 片 窟


今、少しだけムカつきました。
そう云って投げつけた眼鏡は、払い除ける手で軌道を逸らされる事もなく、自ら当たりに行く様な恰好で、捲簾の頬を掠めました。軍人が何と云う事でしょう。敵襲をぼんやりと待つ風情です。眼鏡は確かに、重力や抵抗を無視して進めるほど屈強な物質では在りませんが、それでも、衝突の弾みでレンズの硝子が飛散したら、フレームが折れて突き刺さる可能性、などと考え、避けるのが常です。
それなのに眉間に皺のひとつも寄せず、代わりに睥睨の眼差しと会心の微笑を湛えました。罵られる事が嫌いな捲簾にとって、屈辱的な光景の筈ですが、それ以上に、感情的な僕が物珍しかったのでしょう。
僕自身の手で誰かの期待や希望を裏切るのは決して吝かでは在りません。然しそれが誰かの手に因るものという現状は、招かれざる事態で、だからこそもっと、どんどんと裏切ってやろうと、そう、思います。
手近にあった灰皿や、読みかけて逆様に開いて置いた書物、下界で蒐集した玩具を粗方投げ終えてしまうと、本当はもう面倒だから長椅子に腰掛けて休みたいのですが、それでも僕をじいっと眺める捲簾を残したままで、そんな無粋をしてはいけない気にもなって来ます。だから後は言葉しか無いのです。右腕は投げる事に疲れ、だらりと垂れてしまって居るのですから。
「捲簾。貴方…」
「お前。そんな言葉を知ってるんだな」
「…何の事です?」
「ムカつくって、そんな汚い言葉、知ってると思わなかった」
僕の言葉を遮ってまで、わざわざ今、伝えるべき事でしょうか。相変わらず唯我独尊であるこの男を、僕は本当に嫌いです。東方軍が要らなくなった、たったひとつの駒である捲簾が、僕のこれまでを皆、壊してしまいました。隊の統率や、上官からの信頼、そして僕自身をも失墜させました。昨晩、召集を受け訪ねた執務室で、肩を落としながら敖潤閣下が零した溜息は、捲簾大将は破天荒過ぎて困るな、という言葉は、それを止められない僕の力量をも同時に憂いた嘆息です。野心も何も無い。唯閣下だけに忠実で、忠誠を。そう願う僕に、どれほどの阻喪を与えるものだったか。
「その無駄な笑顔。どうにかなりませんか?虫酸が走ります」
「お前の方がよっぽどだ。その顔。本当に笑った事、在るのか?」
「捲簾!入らないで下さい!」
何時もの様に僕を茶化しがてら、部屋の掃除に訪れた捲簾を、今までずっと入口に留めて置きました。然し物理的な強襲が一段落し、今度は愈々精神的な強攻に触れようとするその時、僕の言葉を遮ってまで無遠慮に踏み込んで来ます。ガタガタと下駄を鳴らし、既に部屋の中央まで来た捲簾に腕を伸ばします。本当は、そうして捲簾の躯を押し戻そうとする筈でした。それなのに。
「どうして僕は」
「たまには、良いんじゃねぇのか」
押し退ける為に伸ばした腕が簡単な力で引かれるのを、僕は黙って見ていただけでした。流されて行く人や物や事柄を極端に毛嫌いしていた自身が、こんなにも容易く流されてしまう。泡沫だと思いたい。阿片の煙に塗れた部屋で目眩を起す様に、逃れられない外力に因って拘引された、夢幻の時間だったのだと。それは最早慰めでしかない事も解って居ます。僕は流された。たったひとりの無頼漢に流され抱き締められてしまった。追い詰める言葉も抱き竦める腕も、それは濁流の勢いで非情に僕を責めましたが、胸の温かさと、鼓動の規則が心地好く、長閑な眠気を誘うのです。胎児は子守唄に拍動を聞くそうですが、だから夜泣きをする乳児の枕元に、駆動音のする時計を置くと泣き止み眠るそうですが、僕はまるでそんな赤子でした。
「眠くなりました」
「仰せのままに」
既にうつらうつらとしている僕を抱きかかえ、寝台まで運んで行きました。そして自らの両膝を床に付け、僕の躯を下ろします。
「おい。手、離せよ」
「てーんぽー。もう、腕外して良いぞー」
「お前が起きるまで、俺はじっとしてろって事か!?」
文字で見たならば、声量は段々増えた様に思うかもしれませんが、実際はそうではなく、段々と小さく、無造作に伸びた僕の髪を割って、耳許で掛かる様になりました。捲簾の首を巻いた僕の両腕は、夢現でも離れ難く、けれど次に目醒めた時は恐らく無いもの、今後の一切に亘って無いもの、そうで無ければ困るもの、そう思って昏睡へと向かいました。
僕は夢を見ていた様でした。久方振りに帰宅したと思っても書斎に籠り切りで、同じ食事の席にも付かない研究者の父と、物事の道理も碌に話せない、頬笑むだけが取り柄の母と、幼い僕がそれぞれの方角を向いて立って居ます。皆、沈黙して居ます。誰かが何かを発したら振り向いて、顔を合わせるかもしれないのに。そう思いながらも僕も、押し黙ったままです。きっかけが無いのです。気難しい顔で分厚い研究書を眺める父にどんな遊びを教えて貰い、家事の一切も賄えない母にどんな菓子を強請ったら良いのでしょうか。そうして唯俯いて居るうちに、ふたりとも、別々の方向へ、僕を置いて歩き出してしまいました。然し僕は両腕の中に温かい何かを抱いて居るので、その温かさを手放す事を惜しんで追い掛けもせずに、次第に遠くなるふたりの影を、交互に眺めて手を振りました。
「…捲簾」
「…腰が痛ぇ」
「何やってるんですか、貴方」
「お前が何時までも手、離さないからだろうが!」
再び瞼を開いた時は冥暗で、丁度この時節は黒雲の掛かる盛りで、月光さえも照らしはしません。その中で僕の胸に頭部を載せ、中腰の様な不格好で捲簾はそこに佇んで居ました。確か僕は日向の寝台に運ばれたのですが。
「捲簾。何かの鍛錬ですか?」
「お前が俺の首に抱きついたまま寝やがるから、動けねぇだろ!?」
「…貴方。ずっとそうしていらしたのですか?」
「文句あるか!?」
「いいえ。僕は夢を見る程眠ったのは、久し振りです」
「そうか。良かったな」
「ええ。良かったです」
「じゃあ、もう動いて良いか?」
「いいえ。もう少し僕に跪いて居なさい」
「ああ!?」
「僕は子供では在りません。一眠りしたからといって、貴方の先刻の侮辱、忘れてなど居ませんよ?」
「俺が何時、お前を侮辱した?」
「ノックも無しに扉を開ける無礼に重ね、嘲弄する科白を吐きました」
「思った事を告げない我慢が、出来る男じゃねぇからな」
そうして僕の両腕を振り解き、みしみしと軋みそうな躯を起して寝台に上がりました。捲簾の頭部を抱えていた二の腕は、両方ともが一遍に涼しくなりました。この温度差は捗捗しく在りませんが、もう一度眠るには睡魔が不足です。現世でも僕はきっかけを掴めないまま、手を振り背を眺めるのでしょうか。
「捲簾…」
「俺は本当に毎日、此処へ来る途中の廊下でお前を綺麗だと思い出す。そして扉を開けて実体を見た途端、抱きたいと思う。だから、綺麗だな。抱かせろ、って言ったんだ。これでも随分我慢したんだが、無理だった」
実直過ぎる長科白は、却ってきっかけを失わせるものでしたが、らしくない僕から始まって、らしくない捲簾で終えるのも、陶酔の一日には相応しいものかもしれません。



fin.



拙宅の天界は、幾つものパラレルワールドが在ると思って戴けると幸いです。
……天蓬の初体験が、何度もあるかもしれません orz 
そしてこの続きは追々に18禁で、と思います。

拍手の応援、本当に有難う御座居ます!!

2006.11.15


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