Refrain


「…また、出し過ぎました」
ぽたぽたと垂れる滴の中、眼を細めて見上げると、矢張りそこにはいつも通りの含羞んだ顔で、手の平を差し出す八戒がいて、夜毎同じ台詞を、尚且つ、誰もが聡明と称える八戒が吐く事に、吹き出しそうになるのを堪え、肩を震わせて言う。
「はーい。目、瞑って下さーい」
ひとつ願うなら、目を瞑ってから喜色満面で待ち受けているよりも、一度俺を見て、確りと見詰めて微笑み、それから閉じてくれると嬉しいんだがなあ、と、密かな繰り返しを今夜も思い、手の平から半分、シャンプーを掬い取った。



髪を切った事に特別な理由は無い。
ただ八戒が、髪の短い悟浄も素敵でした、と思い出したように、易々と微睡の合間から言っただけ。切るも伸ばすも今は、どうでも良い事のひとつだ。空き缶を灰皿にする行為が、どうでも良くない分類へと置き直された時、空いたスペースへ代わりに置いた、そんな瑣末。
斯くして八戒は、髪の短くなった俺を戸口に立たせたまま、ぐるぐると見回し何も言わず、何時になく甘えた調子で寄り添って来た。そしてそれは幾晩経っても変わらず、同時に、長い頃の癖のまま、シャンプーボトルを二度押す事も変わらずに、多過ぎたシャンプーを持て余す。
「俺が洗ってやろうか?」
過日、初めて申し出ると絶句した。閉口では物足りない噤み方であったので矢張り、絶句が真っ当だ。
「…え?何をです?」
「お前はシャンプーで、髪以外の何を洗って欲しいの?」
「誰の?」
「お前の」
「…洗えるんですか?」
流れ続けるシャワーからの湯でいっぱいになり、排水溝がこぽ、と小さく喉を鳴らした。
はっとした風に眼の光と視点を戻して、漸く八戒が口を開く。そこに浮かぶのは、心底不安げな顔。嬉しさは半分未満と推測。確かに人の洗髪などした事はないが、そう難しい事でもないだろうと、八戒の手の平からシャンプーを掬い、シャワーの湯を頭から被せて、濡れた栗色の髪に垂らす。指先でごしごし擦るとぶくぶくと泡立って、面白くなって来た俺は調子に乗って擦り続ける。倣って八戒も残り半分のシャンプーを、しかしここでは道を分け、手の平で軽く泡立ててから濡らした俺の髪にそっと馴染ませ、優しく地肌を洗う。
なるほど。泡立ててから。と、毎夜行われていた筈の、意外な無関心の存在に改めて気付かされ、うん、と言って、一度頷いて見せた。
「…悟浄。シャンプーが目に入りました」
「…何で目、開けてんの?」
「悟浄だって何時も開いてるじゃないですか。それに…」
悟浄が洗ってくれるなんて嬉しくて、ずっと見てようと思ったんです。
シャンプーに沁みる片目を瞑り、恥じらいながら弱めた語尾で、そんな台詞を接ぎ終えた。
癖になるだろう、という予感が、これまでなら柵と等しい悪い破片だったものが、幸福の片鱗として生まれたのは、告げた八戒の口調が本当に、嬉しそうだった所為。
「流すぞー」
シャワーヘッドを手に取りそう言うと、八戒はこくん、と頷いて固く両目を閉ざした。その無邪気に動乱し、それはある種、感動のような思いをも孕んでさざめいた。この世で俺しか知らない、たったひとつ。当人でさえ知らない可憐に、俺は堪らない胸の内を悟られまいと、慌てて泡を流し終え、自らの髪も流してしまって、湯船にざぶりと鼻先まで浸かった。



「…悟浄?湯中りしました?」
「いや。俺、だいぶ上手くなったなーって自画自賛してた」
「はい。凄く上手になりました。これからも毎日、シャンプーの量を間違えたいくらい」
ぼんやり思い出す頬は、緩んでいなかっただろうかと、口角を引き締め直し、戯けて答える。その一連に寄越す怪訝な表情が、湯気に挟まれ朧げで、漸く安堵の息を落とした。
慈しみ合って、愛しさを噛み締める。そんな癖が日常になっていくと良い。
けれど。出し過ぎましたと含羞む笑顔は癖のままで、泡を流し切るまでの素顔を覗けるのは俺だけで。
そう願うのは、贅沢な事だろうか。



fin.



稀に見るほのぼのアツアツ(の積り)で、頭から湯気が出そうですが、こんな浄八も実は好きです。

拍手の応援、本当に有難う御座居ます!!

2007.11.23


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